1960年6月15日夜、日米安全保障条約の改定に反対する学生らが国会に突入したデモで、東大生の樺(かんば)美智子さん(当時22歳)が亡くなってから50年の日を迎えた。当時、東京で医師をしていた丸屋博さん(85)=広島市=は死因の検証にかかわり、今も真相解明にこだわり続ける。15日夕には、広島で樺さんの死と60年安保を演題に講演する。【宇城昇】
【国会が、街が騒然…当時の様子を写真で振り返る】60年安保:デモ隊が国会突入 ついに犠牲者 丸屋さんは山口県出身。当時は病院の内科医として働いていた。樺さんが亡くなった翌日、司法解剖の所見が記されたノートを副院長から渡され、「死因をまとめよ」と指示された。学者の意見を聞き、司法解剖をした慶応大を訪ねて臓器も見た。 膵臓(すいぞう)の激しい出血や、首を絞められた跡などを基に「鈍器で腹部を強く突かれたうえ、首を絞められた窒息死」と死因を取りまとめた。 この見解は国民救援会を通じて発表され、警察による暴行として当時の社会党が告発。しかし検察当局は、デモ隊の人雪崩による胸腹部圧迫で窒息死したとする別の意見を採用し、不起訴とした。 丸屋さんは当時、樺さんの両親と面会し「死因を解明してほしい」と懇願され、その思いに応えられたかを自問し続けてきた。 半世紀を経た今春、樺さんと一緒に国会に突入した元学生2人が丸屋さんを訪ね、あの日の混乱を証言してくれた。デモ隊の中ほどにいたが、押し出されて警官隊と向き合った瞬間があったという。「樺さんも衝突の前面に出されたのだろう。デモ隊の後列にいてできた傷跡ではない」。丸屋さんは、確信に近い思いを抱いた。 樺さんの死から4日後、日米安保は自然成立した。戦後史に刻まれた年から50年を迎え丸屋さんは「日米安保条約を問い直す時期に来ていると思う。いわゆる核密約は暴かれつつあるが、樺さんの死の真相も事実は一つ。明らかにしなければならない」と訴える。 ◇国会前で追悼式 樺美智子さんが亡くなった国会南通用門前では15日、市民団体「9条改憲阻止の会」が追悼式を開いた。60年安保闘争に参加した同会メンバーら約50人が集まり、樺さんの遺影を掲げた台に献花と焼香をした。 同会運営委員の正清太一(まさきよたいち)さん(72)は「安保闘争から50年たったが、アメリカに従属する日本の体制はほとんど変わっていない。この事件を風化させてはいけない」と話した。【福永方人】 【関連ニュース】 【当時の新聞紙面と写真で振り返る】日米安保条約 調印から50年 【関連記事】東大生だった2人の政治家、それぞれの安保50年 【関連記事】60年安保闘争:反対デモ、樺さんの死から50年 「衝突の前面で被害」訴え 【昭和の出来事】樺美智子さんの死 【関連本】『樺美智子 聖少女伝説』=江刺昭子・著 ・ 学校うざいなら、ぶち壊せ…娘教唆容疑で母逮捕(読売新聞) ・ <仙谷官房長官>荒井戦略相に「管理甘い」と厳重注意(毎日新聞) ・ 淀川遺棄の相談電話放置、検証必要…警察庁長官(読売新聞) ・ <新聞活用実践教室>小中高教諭ら70人参加(毎日新聞) ・ 菅首相、亀井氏の後継選任へ=与野党は「会期1日延長」で詰め(時事通信)
by vaunwkisgs
| 2010-06-15 16:13
|
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
リンク
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ファン申請 |
||